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そらち★ヤマの記憶だより

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10/14「ぷらぷら夕張」はこんな所でした

2018/10/12 [Fri]18:09
category: 炭鉱の記憶
りじちょーの吉岡です。 

先日の「ぷらぷら赤平」では、多数のご参加を頂きありがとうございました。
予想もしていなかった60人近い方々と、秋の好天の中、気持ち良く歩くことができました。
ただ、住友の炭鉱だったので、北炭出身の私としては、チョッとアウェー感が…。

次回、明後日の10/14(日)は、いよいよ北炭の旗艦炭鉱である、北炭夕張鉱のエリアを歩きます。
何せ、1960年でみると、全北炭グループ総出炭量の1/3にあたる1,285千トンを、この夕張炭鉱だけで出炭していたのですから、「西の三池・東の夕張」と言われたほどの北海道を代表する大炭鉱です。
ちなみに、第二位は三菱美唄鉱1,065千トン、第三位は太平洋(釧路)1,029千トン。このほか、三井砂川鉱1,006千トン、前回歩いた住友赤平鉱1,004千トンと、デットヒートを演じています。我が北炭幌内鉱は、まだ幌内立坑が完成する前の合理化に着手したばかりの頃なので897千トン、三井芦別鉱909千トンに次ぐ、惜しくも7位でした(100万トン超えは1964年になってから)。

1960年の北炭70年史に掲載されている夕張鉱の俯瞰写真。いま、この写真全体の人口は0人です。


1982年に、大学に入って初めての夏休みに夕張へ行き撮影した写真です。まだ実家は幌内にあって、三笠から夕鉄バスの岩見沢急行便に乗ってやってきました。
今は広大な空き地になっている旧歴史村大駐車場のあたりですが、ホッパーなど選炭機の残骸があり、煙突には「安全第一」の文字が残っています。


夕張鉱が100万トン炭鉱の最後の年に、職員向け社内誌の表紙に掲載された煙突の姿と、ほぼ同じような場所からの写真です。

こちらからは、その10年後の1992年の写真。この時は、日本甜菜製糖の本社(東京)勤務で、年に何回かの帰省の際には、夕張を訪れていました。
今は「北の零年」ロケセットの残骸が残っている場所には、太陽燈室の建物がありました(右側)。太陽燈室とは…?
それは、ぷらぷらに来た時のお楽しみ。


その前の炭住道路は、山田洋次監督の不朽の名作「幸福の黄色いハンカチ」(1972年・松竹)で、高倉健が倍賞千恵子を待ち受けているシーンで登場する場所。
「不器用ですから」ただ無言で、倍賞が乗り込んだ夕鉄バスを追いかけます。

余談ですが…
「幸福の黄色いハンカチ」と言えば、炭鉱労務屋の息子として、一番拍手喝采したのが、このシーン。映画ラスト近くで夕張に入ってくる時に、トンネルを抜けた若菜交差点を(健さんの炭住は右折なのになぜか)左折する場面で一瞬登場する「坑内員募集」の看板。
台本にはないシーンで、「社宅を貸した(北炭平和鉱炭住)んだから、これくらい撮ってくれてもいいんじゃない…」という会社側の意向が見え隠れする場面です。
何せこの時は、坑内員の不足で、父も道内各地の職安を走り回っていたから、当時中学2年の私は「ありがとう松竹!これで全国に募集効果がある」と、一瞬思いました。
が…
青丸に赤星の北炭マークの下に「坑内員募集」「満十八才以上四五歳まで身体強健、縁故者歓迎、各炭鉱労務に於て毎日面接」とあって、下に掲げられている炭鉱は、夕張新第二炭鉱・清水沢炭鉱・夕張新炭鉱・真谷地炭鉱…。
幌内が…ないではないか!!と憤然とした記憶があります(夕張に建っている看板なので当たり前なのですが…)


その頃の、歴史村大駐車場。選炭機の残骸はキレイサッパリ整理され、満杯の車で埋められています。その背景にある、高松・社光炭住が、また夕張らしい雰囲気を出していました。


さらに上流部へ行くと、次第にかつての面影は薄れ行き、反面、「花とシネマのドリームランド」(写真左端)のような、「何でこんな所に、こんなもん作ったのか?」と首をかしげるようなものが続々と出現して、観光という名前の公共事業に突っ走って行く夕張でした。

このような、石炭博物館周辺の炭鉱の面影が、現在はどうなっているのか。皆さんと、ぷらぷら歩いて確認してみたいと思います。

10/14(日)13:00スタート、集合場所は石炭博物館本館です(夕張新鉱のレプリカ立坑が目印)。
参加費無料、事前参加登録は不要です。
博物館1階は、入館料無料で自由に出入りできるオープンスペースですので、お手洗いなどご自由にお使い下さい。自動販売機もあります。

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