そらち★ヤマの記憶だより

あなたの知らない空知の情報をお届けします!

万字に日本一がある!!

2018/01/13 [Sat]18:02
category: 炭鉱の記憶
お正月のプレス空知に、「岩見沢の日本一」が特集されていました
いくつか紹介されていましたが…、まず思いつくものはこれでしょうか??
「百餅まつりで使われている大うす
これは直径2mを超えるもので、日本一(世界一でもありますね)!!

そして、これもそうです。
「万字のズリ山階段」
DSC_2633 (1024x736)

ズリ山階段2468段あるのが日本一なのです!!
※ちなみに、直線のズリ山階段は赤平の赤間炭鉱のズリ山階段が777段で、日本一です!
後から作った万字のズリ山階段ですが、直線部分はあえて775段なのです。

万字炭鉱閉山後、敷地の一部をズリ山を中心に万字炭山森林公園として整備されました。

20120512鉄道_万字炭山駅034 (1024x683)

総面積21haの敷地に様々な種類の樹木が植えられており、春は桜、秋は紅葉が美しく、自然の中でのんびり散策が楽しめます。
山菜やキノコを採りに入る地元の方もいます。

万字ズリ山階段

この階段を登ること、約20分で頂上につきます。
結構きついのですが…

小学校の、地域の歴史を学ぶ総合学習の一環として、子ども達と登った事もありました!

IMG_7656 (768x1024)

※駐車場が2ヶ所あるので、上の駐車場からゆっくり登ると約15分くらい…です


万字炭鉱は、明治36年に朝吹英二が所有していた鉱区を北炭が譲り受け、鉱名を朝吹家の家紋「卍」にちなんで万字と命名されました。

石炭を運ぶ手段として北炭は、夕張側へ高架索道を建設して搬出していました。
大正3年に万字線が開業されると、万字線は石炭輸送だけはなく沿線住民の利便向上、人口増加、市街地形成をもたらしました。

こちらは昭和30年代の万字線から見た、万字のズリ山です↓↓

まち3  万字線より曙町ズリ山 (640x438)
※写真は佐々木昌美さん寄贈

この頃の万字は、それはそれは賑わっていたのでしょうね…

万字炭鉱は昭和51年に閉山、万字線は昭和60年に廃止となりました…


万字炭山森林公園の利用者は特に近年は減少が著しく、2016年は前年と比べ半減の610人まで落ち込んだそうです。
ところが昨年は図らずも「V字回復」となり915人まで持ち直したそう

プレス空知の記事を読むと、こんな風に書いてありました↓↓
万字炭山森林公園を管理する岩見沢市栗沢産業振興課によると、「万字にジンギスカン鍋を集めた「ジン鍋博物館」が開館したのと、ポンネ湯の人気が高まったことが理由ではないか。」と推測する…。
炭鉱閉山後、急激に過疎化と高齢化が進んだ万字地区にとって、いずれも嬉しい話題となった。とありました!!

「ジン鍋博物館」、すごいですね
万字の入り人数に貢献しているのですね!!


雪が溶けたらぜひ万字へどうぞ!!
万字のズリ山、ジン鍋博物館、ポンネ湯…。
道中にも、朝日、美流渡、毛陽…見どころがいろいろありますよ



(OLでした)


【寄贈品紹介】「三菱大夕張」腕章

2017/12/20 [Wed]15:52
category: 炭鉱の記憶
こんにちは!赤平から岩見沢に通っているスタッフ、カニです

そうそう、赤平と言えばこんなニュースもありますね!

≫JOIN WEBページへ
【北海道赤平市】炭鉱遺産を活用する新しい施設のオープニングスタッフ!2名募集

≫ジョブキタ 募集サイトへ

赤平に炭鉱仲間(!?)が増えるんですね~~.゚+.(・∀・)゚+.
ヤマを愛する素敵な方が来ますように……!!

(ヤマを愛する方って希少ですかね?)






さて、そんなセンターにまた新たに寄贈していただいた炭鉱関連の物がありますので、ご紹介させていただきます!
それがこちら。

1220kani1.jpg 

「三菱大夕張」と書かれた腕章です!





三菱大夕張と言えば……





……

…言えば……?





夕張にあった大きい炭鉱ですが…それしか無知なカニは分からない…!!!
しかもこの腕章、「書記」って書いてますが書記ってなんでしょうね!?く、組合…?

ひとまずこの浅い知識のままではセンタースタッフとして危ういです。そもそも夕張ってカニにとってはイマイチ遠い町で、年に1回行くか行かないかという状態で地理関係も全く分かりません。
これを機会に「三菱大夕張」炭鉱について勉強したいと思います((´・ω・`;))





まず夕張市ですが、市のHPによると

『明治7年(1874年)、アメリカ人鉱山地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンの探検隊が夕張川上流の炭鉱地質を調査、その後明治21年(1888年)、道庁の技師坂市太郎が志幌加別川の上流で石炭の大露頭を発見したことから「炭鉱の街夕張」の歴史が始まりました。』

『明治24年(1891年)の炭鉱開始以来、炭鉱の街として栄え、昭和18年(1943年)には市制が施行されました。一時は大小24の鉱山、人口12万人を数えましたが、昭和40年(1965年)代に入って次々に閉山。「炭鉱の街夕張」としての歴史に幕を閉じました。』

『炭鉱に替わって夕張の顔となったのが「観光」です。』『いち早く新たな街づくりに着手、北海道に数ある元・炭鉱の街の中で、最も活性化された街として注目されています。』

とあります。



そんな中にある「三菱大夕張」。まずは困った時の「北海道炭鉱資料総覧」です!

1220kani2.jpg 

……夕張、炭鉱いっぱいありますねぇ…。

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中には「クルキ」とか「蜂の巣」とか気になる名前の炭鉱がありますが、ぐっと我慢して三菱大夕張のページを…

…おや?

  • 「大夕張」
  • 「大夕張新坑」
  • 「南大夕張」

と3つも似たような名前が!そのページを開くとただ一行

『三菱社ー大夕張、大夕張新坑、南大夕張』

との記述。
三菱の炭鉱だったことは間違いなさそうですが…それ以外が良くわかりません。また同書籍の「大夕張炭鉱」のページもあったのでそこを見ると

『この炭鉱の沿革に就いては不明の点が多く』

と書いてあるではありませんか!(;゜0゜)しかし、だいたいのことは分かりました!



まず場所は『夕張郡登川村字大夕張小字夕張山』です。さっそくGoogle mapで検索すると……出てきませんでした(´・_・`)
古い地名なんでしょうね…!!

仕方ないので別の書籍で確認です!

1220kani4.jpg 

こちらの「そらち・炭鉱の記憶集」によると、だいたいの場所はこの辺りのようです。…というのも、この辺りはシューパロダムができた時に道も変わってしまって、町もダムの底に沈んでしまったようです。住所では「夕張市鹿島〇〇町」という住所になるようですね。





さて!場所を発見するだけでなんだか時間がかかりましたが、続きまして沿革です!先ほどの「北海道炭鉱資料総覧」に戻りますと

  • 明治28年 福山米吉氏が試掘権を得る
  • 明治32年 京都合資会社が採掘特許を設定
  • 明治39年 夕張炭砿株式会社が設立
  • 明治42年 大夕張炭鉱株式会社と商号変更
  • 明治44年 三菱が石炭販売権を掌握
  • 大正5年 大夕張炭鉱株式会社より三菱合資会社名義

となっています。(一部をピックアップ)
しかし三菱になってからについてはここには書かれていませんので…

1220kani6.jpg 

次はこれを見ます!
こちらによると

『昭和初期に南部地区での炭層条件の悪化から、北部となる現在の鹿島地区に操業拠点を移動、大夕張という地名は以降ここを指すようになった』
(「炭鉱 盛衰の記憶」(北海道新聞社、pp.49)

そうです。
その続きには

『昭和四十八年に大夕張炭坑は閉山、当時既に開発を進めていた南部地区地区、南大夕張の新鉱に再び操業地区が戻る形となっている』

とありますので「三菱大夕張」としては大正5(1916)年~昭和48(1973)年までの約57年間操業していたようですね。

ちなみに先に出てきた「南大夕張」という炭鉱は三菱から分離してできた会社のようで

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この会社で発行したものと思われる冊子によると

昭和2年 三菱鉱業株式会社から大夕張砿業所 独立
昭和44年 三菱鉱業より分離独立して三菱大夕張炭鉱株式会社となる
昭和45年 営業移行、南大夕張砿業所として発足

となっていますので閉山前には同じ三菱系の炭鉱として操業していたようですね。

その後

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こちらの年表によると南大夕張炭鉱は昭和64(1989)に閉山しています。(ただ、本の冒頭の年表では平成2年が閉山と書いてあるのでどちらが正解なのでしょうね…?)






沿革を追うだけでもこの資料を行ったり来たり……!!!(゚д゚)
しかし全然今まで知りませんでしたが、最初は南から始まった炭鉱が北に移動し、また南に戻り、さらに閉山後は町がダムに沈む……とかなり激動の炭鉱ですね。

この写真集によると昭和30年に「石炭鉱業合理化臨時措置法」が施工され、炭鉱の合理化・閉山が始まったそうです。

ここからの資料は……これを読めばわかるでしょうか!?

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「『おい、三井芦別に労働組合が出来たぞ 俺たちも労働組合を作ろう』
有志 呼応して 鹿島革新同志会 10月12日 誕生
大夕張労働運動の 黎明を迎える
対立する組織もあり 相語らい 胎動激しく
11月10日 大夕張炭砿夫労働組合の創立を見る」
「未来にむかってたくましく歩もう」(三菱大夕張炭鉱労働組合解散記念誌、pp.7)

恐らく直前に昭和20年の記述があるので、労働組合が出来たのも昭和20年の終戦の頃なのでしょうか。

この先を追うと組合はたびたびストなどで会社と戦い、昭和35年の三池闘争に介入したことも触れられていました。その後は

『三十六年、南卸放棄、鉱泉沢と北卸の生産も石炭枯渇で三十九年、四十年と奥部に移行し大夕張の生命線となる』
『深部は自然発火多発、温度は二十七~八度、作業時間の短さを労働密度でカバーして、俺のとこの山だけは何としてでもとの意気込みは強く……』
『新石炭政策に対応して三菱鉱業は四十四年五月十四日、臨時経協で石炭部門の分離を提示』
『七月十二日スト解除、三菱大夕張炭砿株式会社 大夕張砿業所となる』

その後は坑内条件が悪化していく中で次のように会社から閉山の提案があったそうです。

『四十八年四月十九日、運命の日ともいうべき臨時経協の申し入れ、『大夕張を閉山し、仲間500人は南夕へ』と、恐れていた、一番恐れていた会社の提案』

組合は閉山を阻止するために戦いますが、条件闘争へと移行したそうです。そして

『全山投票は圧倒的多数をもって、昭和四十八年六月二十九日、全員解雇として山を閉じることとなった』

と閉山の様子をつづっています。





そうなると…やっと腕章の話に戻りますが、この腕章は恐らく合理化の始まった昭和30年~閉山の昭和48年の間の物でしょうか。しかも『書記』ですから組合の中でも役職の付く方の持ち物だったのでしょうね。

これと全く同じものではありませんが、組合の解散誌には似たような腕章が!!

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この腕章も、この写真のように合理化・閉山に向かう中で家族やヤマを守るために闘った誰かの腕にあった物なのでしょうね(´∀`*)

しかし……ちょっと知らない炭鉱の組合について調べようと思っただけで軽く3時間を越え…
積まれた資料もこの有様……

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それなのに

「結局、この腕章をしていた『書記』はどんな仕事をしていたの!?」
っていうことや
「閉山の理由は坑内状況の悪化&合理化で合ってるの!?」
という調べる中で湧いてきた私の疑問は解決されないままです(´・_・`)

しかも大夕張から「移行」した南大夕張については手付かず状態。
その上、操業中の様子…大夕張炭鉱ではどうやって石炭を掘ってその石炭には、会社にはどういう特徴があって……とかもまだまだ調べられてません。
さらに言うと大夕張鉄道という未だにファンも多い鉄道があったにも関わらずそちらも全く調べず仕舞い……。

消化不良です!(;д;)
詳しくない人間が調べものをするとこうなるのですね…。

元々歴史系に弱い人間なのですが、もうちょっと赤平以外についても覚えないとならないですね~!

1220kani1.jpg 

以上、ひとつの腕章から始まった三菱大夕張の旅(!?)に出たカニだったのでした。


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月形の『中田商店』を知りませんか?

2017/11/29 [Wed]14:10
category: 炭鉱の記憶
最近マネジメントセンターに、珍しい寄贈品が仲間入りしました
徳利と、お猪口です

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ご寄贈くださったのは、札幌にお住いのKさん
どうもありがとうございます
Kさんは月形生まれで、3歳まで月形で暮らしたのだそうですが、
50年ほど前に町外へ引っ越しをされています。
この寄贈品は、その当時のものではないかとのこと

そして…よ~くご覧ください
お猪口には「石炭 自転車」

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「月形 T12」は「TELL(電話番号) 12」なのではないか?とKさん。

徳利にも、「中田の石炭」とぐるっと彫られています(徳利は2つとも同じ模様です)

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おそらく、主力商品が石炭だったということですよね
近隣の月形炭鉱などの石炭を扱っていたのか、
はたまた幌内炭など町外からの石炭を扱っていたのかは不明だそう。

IMGP6844.jpg

Kさんが月形にいたのは3歳まで。さすがに商店については記憶がないようです
スタッフがインターネットでも調べてみましたが、『中田商店』は見つからず…。
今は商店ではなく、燃料屋さんなど別のお店に転換しているかも?等、
色々な予測が飛び交い、ますます気になってしまいました~

月形にゆかりのある方、石炭と自転車を扱っていた『中田商店』をご存じないでしょうか?
ブログコメント欄などで、ぜひお教えください
情報お待ちしています

(ぼーいっしゅ)
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さいとーさんの模型の新作は…

2017/11/26 [Sun]17:06
category: 炭鉱の記憶
先日、マネジメントセンターに、さいとーさんと葛西さんがご来館!
葛西さんが制作依頼していたあの模型を、さいとーさんが完成させました
このブログをご覧になっている方は、お分かりになるのではないでしょうか…!

IMGP6819.jpg

幌内線旧唐松駅舎の模型です~~

_DSC6433.jpg

しかも…操業当時のように、全体が板張りバージョンの模型です
現在のものは外壁が少し修繕されているようです。
たしかに、こちらの方が、さらに雰囲気が高まる感じがしますね!

DSCN5302.jpg
当時の外壁の様子などは、駅舎内に飾ってある古い写真にうつっていたのだそうです!
また、駅舎には煙突も付いていたようです。


こちらは、ホーム側です
現在は開放されていない駅員室側は、雪対策のためか窓が塞がれ、
掲示板として活用されているんですね。
(今まで普通に掲示板として見ていましたが…そういうことだったのかです)
少し増築か改築したような部分も見られますね。
これは比較がとっても楽しい~

_DSC6451.jpg

IMGP6826.jpg

ホーム前には駅名標も!
三笠駅(現在のクロフォード公園)~弥生駅間を結んでいました。
沿線の北炭幌内炭鉱、北炭幾春別炭鉱、住友奔別炭鉱などの他、
駅周辺の、住友唐松炭鉱、北炭新幌内鉱で産出された石炭を運搬するため、
引込線を含めて計7本ほどの線路(保線をされていた方の資料では、それ以上の記載も?)が敷かれていたのだそう

DSCN5307.jpg


そして、見どころは駅舎内にも~
窓口の部分…実物はこちらで…

DSCN4337 (1024x746)

模型がこちら!
丸窓も再現されているのは、さいとーさんらしいこだわりですね♪
今回の模型は上から中を見下ろせる仕様ではありませんが、
入り口から覗き見ることができますよ

DSCN5315.jpg

旧唐松駅舎は、地元有志の方々の管理で保存・開放されていますが、
廃線・廃駅となってしまっている以上、じょじょに経年劣化していっても不思議ではありません…
さいとーさん、葛西さん、模型に記憶を残していただき、ありがとうございます

模型は、マネジメントセンターのロフト部分で展示中です
(明日、明後日は休館日なので、ご注意ください。)
ぜひ見にいらしてくださいね~

(ぼーいっしゅ)
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炭鉱とふるさと作文賞

2017/11/18 [Sat]18:23
category: 炭鉱の記憶
歌志内出身の芥川賞作家、高橋揆一郎さん。

「氷柱忌(つららき)」第十回記念として、「炭鉱とふるさと作文賞」とした賞を設定され、作文を募集していたところ…
2017年4月21日ブログ記事
受賞者が決まり、11月3日、歌志内で表彰式が行われたそうです

一般の部のテーマは「炭鉱」
小・中学生の部のテーマは「ふるさと」

道内外から75点の応募があり、入賞は32作品だそう

その…
全応募作を収録した作文集をまとめられました

DSCN5183 (1024x768)

先日、三戸会長から数冊ご寄贈頂きました。
誠にありがとうございます

一般の部で最優秀賞の高橋揆一郎賞を受賞されたのは、
「先山になった父のこと」を書いた鈴木義正さん。

夕張の炭鉱で働いていた父親を持つ子どもの想いや、炭鉱での生活の様子が描かれています。

他にも「電車は轟音と火花に包まれ」「炭坑人風呂」「この夏の夕張で」など、タイトルを見ただけで、読んでみたい…!と思わせる作品ばかり。

読んで見たい方は、マネジメントセンターまでどうぞ
スタッフにお声がけくださいね!!

(OLでした)